西岡常夫先生の書かれた本に、「杖道自戒」という本がある。
数年ぶりに手にとって読んでみたところ、大変に感銘を受けた。
興味深い記述が色々あるのだが、まず本の最初の方で考えさせられたのが、「このようにして形は死んで行く」というくだりである。
少し長いが、引用させて頂く。
「昭和六十年二月十六日から三日間、例年の如く全国杖道講習会が全日本剣道連盟主催で東京江戸川のスポーツセンターで行われた。今年も実は行く気はなかったが、講習というものに疑問を持っていたので、三日間通して受講してみた。
<中略>
現在の講習とは活字にした教科書を基礎にして、その通りに寸分違わず動くことを教えることと、活字上の解釈に二通り以上の違いが出来たら一つのものに統一してしまうことにある。従って、書いてある通りの動作以外は全て間違いと教えることである。
<中略>
八相の太刀の鍔の位置はどこでなければならぬとか、剣の角度は何度ぐらいが正しいとか、正眼に構えた剣先の高さは「喉」なのか「目」なのかとか、打たれた太刀の次の動作には間を置くのか置かないのかという質疑応答が真面目に最高段位者から出るに至っては、これは講師を馬鹿にしているのか、自分の稽古不足をさらけ出しているのか、判断に苦しむ。講習とはそうした事を教える場だと思っているのだろうか。」
正直なところ、私はそういう場だと思っていた。
そして、西岡先生はこうも述べられている。
「こうした講習に依って高段者になった者は真の形稽古による目標に到達できず、常に初心者の状態でしかない。
<中略>
熱心に全国からはるばる参加する高段者は何を求めて参加しているのであろうか。勿論上の段位に合格したい為であろうが、こうして得た段位の内容に私は疑問を感じてならぬ。
<中略>
こんな事をして出来上がる形武道を習って一体何が解り何を得るのであろうか。」
免許皆伝の先生がここまでおっしゃるのは相当なことだ。
相当の危機感を持たれていたのだろう。
しかし思うに、制定杖道はそれこそこんな形武道であって武術ではない。
よって、形稽古の真の目的など、そもそも誰も気にしない。
元から試合や段位が目的の人に、それでは形が死んでいく、という、血を吐くような先生の嘆きはかすりもしない。
剣先の高さが「喉」なのか「目」なのか、ということの方が重要なのである。