今思うと不思議だが、若い頃は剣術や棒術などの、得物を用いる武術にあまり興味がなかった。
漫画などの影響か、空手や中国拳法など素手の武術が好きで、実際に習ったりした。
そしてかじった程度で、フルコンが強くて寸止めは弱いだの、太極拳は使えず八極拳が実践的だのと言っていた。
今考えると全く的外れだが、当時はまじめにそう思っていたのだ。
結局、武術の種別や流派に単純な強い弱いはなく、個人がどれだけ達しているかである。
武芸十八般と言われるように、一つの武術を身につければ、他の武術も根本は同じだ。
そのことを理解したのは、もう若いとは言えなくなってからである。
そして杖を長年稽古することは、他の武術の理解に役に立ったと思う。
例えば、中国拳法では型の他に站椿という、動かずにじっと立つだけの鍛錬を行う。
昔はあれを気を通すためとか、足腰を鍛えるための補助的な鍛錬と考えていた。
しかし杖を稽古するなかで、そうではないというのを理解できた。
どちらかというと型が補助であって、站椿などの練功法がメインの稽古だと気がついた。
実際、中国拳法や空手などのいくつかの流派は上達の為のカリキュラムが整備されていて、参考になる。
例えば、八極拳はまず小架という基本型だけを三年ぐらいやって基礎を固める。
伝統空手では、巻藁を突き、三戦やナイハンチで体の締め方や呼吸、膝の抜きなどを身につける。
示現流は、立ち木などに徹底的に打ち込みを行い、一撃必殺の剣を身につける。
一方、自分が知る限り、杖では一つの技や形をみっちり時間をかけて稽古するということをしない。
やれ制定だ、表だ、中段、影、剣術、短杖、鎖鎌だと、まるで小学校の宿題みたいに次から次へと覚えることが出てくるからかもしれない。
しかしそれでは、習った形の数は増えても、戦うための技が身につかないのではないかと思う。
幕末に示現流が実戦で強かった理由は、ただ徹底的に一撃だけを磨き続けたからなのだ。
昔なにかの本で読んだのだけれど、空手や中国武術において、秘伝とは型や技ではなく、練功法のことらしい。
人間相手に打つ練習はできないので、巻藁や木人、砂袋のような練功用の器具を使って、数年かけて技の威力を磨くとのこと。
そのため空手にしろ中国拳法にしろ、巻藁の作り方のような練功器具の詳細こそが流派の命であり、外部の人間には絶対教えない、秘中の秘であるというのだ。
それが本当かどうかは知らないが、振り返って神道夢想流について考えると、そういった練功法みたいなものがあるとは、残念ながら聞いたことがない。
末端会員の自分が知らないだけかもしれないが、気配すら感じたことがないのを考えると、おそらく無いか失伝したのだろう。
しかし本来は形を色々やる前に、木でも竹でも、実際に物を打ったり突いたりする稽古をたくさんすべきだと思う。
空手が試し割りや巻藁で、剣術が試斬や立木打ちで技の威力や手の内を磨いているのに、杖があんな木の棒でちょっと叩く真似をしたところで何かの役に立つと本気で思っているのだろうか。
昔、八極拳の達人が「不怕千招会,就怕一招精(多くの技を知る者をおそれず、一つの技に熟練したものをおそれよ)」と言ったとのこと。
杖術でも、形や素振りだけではなく、技の威力や切れを高めるための稽古が必要だろう。
いやそんな、自分は戦うために神道夢想流杖術をやっているのではない、と言う人もいるかもしれない。
しかしそれなら、制定杖道で十分ではないか。
松井健二先生の著書に、乙藤先生がこうおっしゃったと書かれている。
「道などと言うものではなか。術を求め、極め、極めて道に至る」
実際に誰かと戦うかどうかは別として、真剣勝負のために術を求めるのが武術であろう。
そして術を求めるということは、一招を恐れることだと思うのである。