そして「剣の法」では、この映画のとあるシーンについて書かれている。
映画の前半の方での武芸者と浪人の立ち合いが、なんと新当流の勝ち口を表しているらしい。
一体、どのような立ち合いか。
武芸者は半身で太刀を下段後方に構えた、いわゆる脇構え。
それに対して浪人は、上段に構えた太刀で武芸者の左肩を切り下げる。
その瞬間、武芸者は両足を入れ替えるような形で、左半身から右半見へ体を入れ替える。
と同時に相手の太刀を躱しつつ、袈裟斬りで相手を斬り下げる、というものだ。
おそらく文字で説明してもわかりにくいと思うので、実際に映像を見るのが一番である。
実は、この映画の武術指導をしたのが、新当流の後継者と言われた人だったらしい。
そのため、この立ち合いは新当流の勝ち口がベースになっているだろうというのだ。
まず、肩を斬らせること。
そして、それを体さばきで躱しつつ、その力を利用して相手を斬ること。
確かに、理にかなっている。
もう一つの陰流。
「剣の法」で紹介されている技は、さきほどの新当流の変化技とも言えるものである。
それは陰流の「猿廻」という型の中にある。
その猿廻とはどのような技かというと、先程の新当流と非常によく似ている。
違う点は、相手が斬りかかってきたのに合わせて、脇構えから両足を踏み変えずにそのまま相手を斬るということ。
つまり、太刀を躱さず、相手から遅れて動き、それでも勝つというのが猿廻の理合いだ。
いやいや、それでは先に斬られるか、よくて相打ちだろう、と我々凡人は考える。
しかし天才である上泉信綱は、猿廻を見てその意図を理解し、開眼に至った。
そして後に、新陰流を創始するのだ。
実際、新陰流には陰流の「猿廻」がそのまま伝えられているらしい。
しかし、なぜ後から動いているのに、勝てるのか。
「剣の法」では、その原理を「切り筋を切り筋で塞ぐ」とか「移動軸を切り崩す」という表現で説明している。
いずれにしても、新当流にしろ陰流の猿廻にしろ、反射神経や力、スピードなどで勝つのではない。
勝ち口という、百に百勝つための技によって必然的に勝つのだ。
とは言え、百に百勝つなどと口で言うのは簡単だが、実際には難しい。
そしてその技術を身につけるには、型として稽古するしか無かった。
だから型の目的は、順番を覚えて間違えないことでもなければ、二人づつ並んで本の通りに動いたかを競うことでもない。
勝つため、生きるためである。
しかし現代は、その生きるために武器をとって戦うという理由が無い。
武術や型が形骸化して伝統芸能と化すのは、ある意味仕方がないことなのかもしれない。
そして段位や免許などといったものだけを拠り所に、驚くほど狭い世界で年寄り同士がいがみ合っている。
残念だが、野球やサッカーなどのスポーツが盛り上がる一方で、武術や武道が若者に見捨てられているのも当然だと思った。