孤杖伝

神道夢想流杖術研究

「剣の法」研究 その三 新当流と陰流

七人の侍」という映画は黒澤明監督の名作だ。

そして「剣の法」では、この映画のとあるシーンについて書かれている。

映画の前半の方での武芸者と浪人の立ち合いが、なんと新当流の勝ち口を表しているらしい。

一体、どのような立ち合いか。


武芸者は半身で太刀を下段後方に構えた、いわゆる脇構え。

それに対して浪人は、上段に構えた太刀で武芸者の左肩を切り下げる。

その瞬間、武芸者は両足を入れ替えるような形で、左半身から右半見へ体を入れ替える。

と同時に相手の太刀を躱しつつ、袈裟斬りで相手を斬り下げる、というものだ。

おそらく文字で説明してもわかりにくいと思うので、実際に映像を見るのが一番である。


実は、この映画の武術指導をしたのが、新当流の後継者と言われた人だったらしい。

そのため、この立ち合いは新当流の勝ち口がベースになっているだろうというのだ。

まず、肩を斬らせること。

そして、それを体さばきで躱しつつ、その力を利用して相手を斬ること。

確かに、理にかなっている。


もう一つの陰流。

「剣の法」で紹介されている技は、さきほどの新当流の変化技とも言えるものである。

それは陰流の「猿廻」という型の中にある。

その猿廻とはどのような技かというと、先程の新当流と非常によく似ている。

違う点は、相手が斬りかかってきたのに合わせて、脇構えから両足を踏み変えずにそのまま相手を斬るということ。

つまり、太刀を躱さず、相手から遅れて動き、それでも勝つというのが猿廻の理合いだ。


いやいや、それでは先に斬られるか、よくて相打ちだろう、と我々凡人は考える。

しかし天才である上泉信綱は、猿廻を見てその意図を理解し、開眼に至った。

そして後に、新陰流を創始するのだ。

実際、新陰流には陰流の「猿廻」がそのまま伝えられているらしい。


しかし、なぜ後から動いているのに、勝てるのか。

「剣の法」では、その原理を「切り筋を切り筋で塞ぐ」とか「移動軸を切り崩す」という表現で説明している。

いずれにしても、新当流にしろ陰流の猿廻にしろ、反射神経や力、スピードなどで勝つのではない。

勝ち口という、百に百勝つための技によって必然的に勝つのだ。


とは言え、百に百勝つなどと口で言うのは簡単だが、実際には難しい。

そしてその技術を身につけるには、型として稽古するしか無かった。

だから型の目的は、順番を覚えて間違えないことでもなければ、二人づつ並んで本の通りに動いたかを競うことでもない。

勝つため、生きるためである。


しかし現代は、その生きるために武器をとって戦うという理由が無い。

武術や型が形骸化して伝統芸能と化すのは、ある意味仕方がないことなのかもしれない。

そして段位や免許などといったものだけを拠り所に、驚くほど狭い世界で年寄り同士がいがみ合っている。

残念だが、野球やサッカーなどのスポーツが盛り上がる一方で、武術や武道が若者に見捨てられているのも当然だと思った。